

石窟庵の石仏(釈迦如来座像)
慶州周辺は、紀元前1世紀から10世紀に栄えた新羅王朝の都が置かれていた。石窟庵と仏国寺は、8世紀ごろ新羅の景徳王の時代、宰相の金大城により建立。石窟庵と仏国寺は、新羅美術の最高峰・集大成という呼び声もある。
石窟庵は、東向きに作られており、日の出、月の出の名所でもある。
1995年に、ユネスコの世界遺産(文化遺産)として登録。
この世界遺産は世界遺産登録基準における「人類の創造的才能を表現する傑作。」「人類の歴史上重要な時代を例証する、建築様式、建築物群、技術の集積、または景観の優れた例。」の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
吐含山の麓にある。
石窟は、花崗岩を組み合わせて人工的に作られている。内部構造は、入り口から前室・扉道・主室の3つに分かれている。前室は本尊が東の方向を向くように設計されている。(冬至に日が昇る方向と一致)一番奥の主室に本尊である釈迦如来坐像が設置されている。主室はドーム型の形状、前室・扉道は直方体の形状をしている。花崗岩を積み上げた後、土が被せられたと考えられている。花崗岩の壁には、菩薩像や四天王像などの石仏が掘り込まれている。扉道の入り口両側に仁王像が彫られている。
本尊は、高さ3.4mの釈迦如来坐像である。釈迦如来坐像の額には、宝石が埋め込まれている。東から昇る太陽により石窟内に日差しが入ってくると、額の宝石が光る設計になっている。
新羅の景徳王の時代、宰相の金大城(キムデソン)により751年頃、建立された。『三国遺事』には金大城が前世での父母のために建立したと記述されている。当時は、石窟寺と呼ばれていたらしい。
儒教が浸透し、仏教が廃れてくると放棄されたようである。
1909年、雨宿りの場所を探していた郵便配達人によって偶然再発見された。 1913年から三回に渡り、大規模な修復工事が行われる。しかし無計画に行われたため建立当時の石像の配置が分からなくなってしまった。石窟の周囲には、配置する場所がわからなくなってしまった石材が放置されたままになっている。またコンクリートで補修されたため石窟内部に蒸気が篭るようになってしまった。
2004年現在、入り口がガラス板で覆われ、室内の湿度が常にコントロールされている。このため一般の見学者は、石窟内部に入ることができない。

仏国寺正面
石垣で固めた盛土の上に伽藍が配置されている。伽藍は大きく3つの区域に分かれ、回廊で区切られている。参道正面から2つの区域があり、各区域がそれぞれ蓮華橋・七宝橋と青雲橋・白雲橋とで外域と結ばれている。
1593年に焼失するまでは、それぞれの橋の元に九品蓮池が広がっていたといわれている。
歴史
新羅の景徳王の時代、宰相の金大城(キムデソン)により751年頃に建立された。『三国遺事』には金大城が現世での父母のために建立したと記述されている(『三国遺事』巻五・孝善・大城孝二世父母 神文代)。
最盛期の8世紀には約60棟の木造建物からなった。
1593年の文禄の役で、ほとんどの木造建造物が焼失する。2004年現在残っている木造建築物は、この焼失後に再建されたものである。
1659年から再建工事が始まる。
発掘調査の後、1973年、改修工事で無説殿、観音殿などが再建される。
* 青雲橋・白雲橋
大雄殿正面の紫霞門に掛かる石橋。751年の時から存在している遺構と考えられている。上段の16段が白雲橋、下段の17段が青雲橋である。合わせて33段であるが、仏教で33は未だ仏の境地に達せずという意味である。国宝23号。
* 蓮華橋・七宝橋
* 青雲橋・白雲橋と同じ形式の石橋であるが、規模は小さめである。国宝22号に指定。
* 大雄殿
* 仏国寺の本殿にあたる。681年ごろ創建されたと思われる。1765年に再建。
* 多宝塔
高さ10.4m。新羅時代751年の作と推定されている。四面に階段が設置されまた、塔下部は四本の柱で支えられている珍しい塔の形状をしている。また塔の周りには石獅子が配置されていたが、現在では1体だけが残っている。国宝第20号。
* 釈迦塔
高さ8.2m。新羅時代の三層塔。国宝第21号。1966年には復元工事中、塔中央部から世界最古級の木版印刷物である『無垢浄光陀羅尼経』が発見される。
* 金銅毘盧遮那仏
新羅時代の作、国宝第26号。