
フ大乗仏教を奉じていたシャイレーンドラ朝で、ダルマトゥンガ王の治世の780年頃から建造が開始され、792年頃一応の完成をみたが、サマラトゥンガ王(位812年~832年)のときに増築している。最も下の基壇は、115m四方で、五つの方形の基壇の上に三つの円形の基壇が載る階段ピラミッド状の構造となっている。五つの方形の基壇の縁は壁になっていて、露天の回廊がめぐらされ、四面の中央には階段が設けられて最上部の円形の基壇まで昇れるようになっている。方形基壇の回廊には、1460面に及ぶレリーフがあり、仏像は、回廊の壁龕に432体、三段の円形基壇の上に築かれた釣鐘状で空洞の仏塔(ストゥーパ)72基の内部に一体づつ納められ計504体がある。中心には釈迦の遺骨を納めたといわれる大きな仏塔がある。高さはもともと42mあったが現在は破損して33.5mになっている。ボロブドゥールはそれ自体がひとつの巨大な曼荼羅であり、一説によると須弥山を模したものとも考えられている。20世紀後半に日本の協力により復元修理された。その後、2006年5月27日に起こったジャワ島の大地震で寺院の石塔の一部が崩れるなどの大打撃を受けた。そのため学者群が調査のあと、修復を予定している。

Borobudur Temple Compounds
この世界遺産は、世界遺産登録基準における「人類の創造的天才の傑作を表現するもの。」「ある期間を通じて、または、ある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。」「顕著な普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰、または、芸術的、文学的作品と、直接に、または、明白に関連するもの。」の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
出典:フリー百科辞典『ウィキペディア(Wikipedia)』
インドネシアで最も有名な古代遺跡の一つであるボロブドゥールは、カンボジアのアンコール・ワットと並んで東南アジアを代表する遺跡です。 今回は、インドネシア史サイト『インドネシア歴史探訪』を管理し、1998年にインドネシア・ジャカルタ駐在員としてジャカルタに飛び立った早崎隆志さんのご協力を頂いて、ボロブドゥールについてご紹介します。

上層円壇のストゥーバ群
全体は、自然の丘を200万個の石(規格化された質の粗い黒灰色の安山岩ブロック)でおおって作った9段の階段状ピラミッド。底面は一辺119メートルのほぼ正方形。頂上までの高さは35メートル。
* 東向きの仏像……手を地面に付ける「指地」の印(=悪魔を追い払う)を結んだ「阿じゃ(あじゃ)如来(にょらい)」
* 南向きの仏像……「満願」または「施与」の印(=何でも願いを叶えてくれる)を結んだ「宝生(ほうしょう)如来」
* 西向きの仏像……「弥陀定印」または「禅定」の印(=瞑想中であることを示す)を結んだ「弥陀(みだ)如来」
* 北向きの仏像……「無畏」または「施無畏(せむい)」の印(=人々から恐れを取り除いてくれる)を結んだ「不空成就(ふくうじょうじゅ)如来」
なお、ジャワではボロブドゥール遺跡を Candi Borobudur (ボロブドゥール寺院)と呼ぶ。この「チャンディ(candi)」は普通「寺院」と訳されるが、本来は「お墓」という意味である。ジャワ人はこれらの仏教遺跡を昔のお墓と考えていたが、考古学調査が進むに連れ、必ずしも墓地や霊廟でなく、礼拝所や学問所、宮殿などであった可能性も出てきたので、「チャンディ」という言葉の意味自体が変質した、というわけである。
一般には、
* 「ボロ」=サンスクリット語の「ビャラ(byara)」(「寺、お堂」)の転訛
* 「ブドゥール」=バリ語の「ブドゥフル(beduhur)」(「丘の上」)から派生
との解釈から、「丘の上の僧房」を意味すると言われる。
しかし、近年の研究によれば、ボロブドゥールは当時は古ジャワ語で「カムラン・イ・ブーミサンバラ」、サンスクリットで「ブーミサンバラ・ブダラ」(「悟りの因を助ける様々な善法」)と呼ばれていたらしく、「バラ・ブダラ」がなまって「ボロブドゥール」となった……というのが本当らしい。
【恐るべき侵略者の登場】
ジャワ島では紀元前後から稲作農耕が盛んでしたが、特にジャワ中部は広大な平野が開けているため、広い田んぼを切り開き、多くの人口を養うことが可能でした。従って、ジャワ島で最初に巨大な国家が出現するのも、中央ジャワの平原でした。中部ジャワで最初に勢力を持ったのはサンジャヤ朝でした。
732年のチャンガル碑文には、当時中央ジャワ南部マタラーム地方を統治していたサンジャヤ王は「穀物と黄金に富む」ジャワの国にリンガを建立した、と書いてあります。リンガはヒンドゥー教のシヴァ神のシンボルですから、8世紀前半の中部ジャワには、ヒンドゥー教を奉ずる農業国サンジャヤ朝が君臨していたことが分かります。
ところが、サンジャヤ朝の発展は8世紀中頃、唐突にストップさせられます。なぜなら、同じジャワ中部に突然勃興した「シャイレーンドラ」という王朝に圧倒されてしまうからです。
さて、このシャイレーンドラ朝がどこからやってきたのか、実ははっきりしません。7世紀前半から中部ジャワ北海岸に存在した「訶陵」という国が、その前身だという説があり、そうだとすれば「8世紀中頃、訶陵王ガジャヤナが都を東方に移し、闍婆城と名付けた」という中国史書の記録は、シャイレーンドラ朝の中部ジャワ征服を暗示しているのかも知れません。いずれにせよ、8世紀後半に歴史の表舞台に躍り出たシャイレーンドラ朝は、猛烈な勢いで膨張を始めます。
767年、「崑崙闍婆の賊」がベトナム北部に侵入して放火・掠奪を働き、774年には「死のごとく恐ろしく、悪性で船に乗ってきた人びと」がチャムパー(南ベトナム)を襲撃、シヴァ神殿を掠奪します。787年にも再びジャワの軍隊がチャムパを襲っています。ここで言う「ジャワ」「闍婆」がシャイレーンドラ軍を意味するのは言うまでもありません。ことにシャイレーンドラ朝が激しく攻め込んだのは、カンボジアでした。
アラブ商人スライマーンは次のような話を伝えています。
8世紀後半のある日、若いクメール人の王は、大臣たちに「ザーバジュ(=ジャワ)の大王の首を盆に載せて眺めてみたいものじゃ」と豪語しました。これを聞いて怒ったジャワの大王は、1000隻の軍船を率いてクメールの都を急襲し、クメール王の首を刎ね、それをミイラにして後継者のもとに送りつけて、「二度と不心得を起こさぬように」と命じたのです。それ以来クメールの王たちは毎朝ザーバジュを方角を拝むのを習慣とした----と言います。
このお話のどこまでが史実か分かりませんが、8世紀後半のある時期、カンボジアのクメール王国がシャイレーンドラ朝の属国になっていたのは事実だと見られます。例えば、カンボジアはそれまでヒンドゥー教一色だったのに、8世紀末になると初めて菩薩像----つまり大乗仏教の仏像が作られています。そして、大乗仏教はシャイレーンドラの国教だったのです!
シャイレーンドラの侵略の魔の手が、スマトラ島~マレー半島で栄えていたシュリーヴィジャヤ王国に伸びたのも間違いないでしょう。シュリーヴィジャヤの唐への朝貢が742年以降ふっつり途絶えるのがそれを物語っています。シュリーヴィジャヤを制圧して手に入れたマラッカ海峡は、シャイレーンドラ朝の外征の財源となり、カンボジアへの軍事侵攻の基地ともなったのです。
シャイレーンドラ朝の対外発展は、東南アジアどころか、インド洋を越えてアフリカ東海岸まで到達した可能性があります。と言うのは、アフリカ東岸に面するマダガスカル島の住民はインドネシア系(正確にはアウストロネシア語族インドネシア語派)に属するからです。
マダガスカル島民がいつ、どのようにしてインドネシア方面からマダガスカルへ移住してきたかははっきりしませんが、西暦1000年前後と言われていますから、シャイレーンドラ朝の急拡大で東南アジアが混乱に陥った8世紀後半、インドネシア語派の一部の西方進出(あるいは逃亡?)が行われた確率は高いと思われます。
今接すると礼儀正しく穏やかなジャワ人たちにも、このように猛々しい、血気盛んな時代があったのです。
【シャイレーンドラ朝の凋落】
しかし、おごれる者は久しからず。シャイレーンドラ朝の黄昏(たそがれ)は思ったより早くやってきます。
海外での覇権は、9世紀の初めには早々と失われます。カンボジアでは、ジャワから帰還したクメール王ジャヤヴァルマン2世が802年、「ジャワの支配を断ち切る」と高らかに独立を宣言、アンコール朝を開いて後の最盛期の基礎を築きます。
国内でも内紛があったらしく、急速に勢力を失っていきます。832年にサマラトゥンガ王が死ぬと、その子は王位を継ぐには幼すぎたので、その姉プラモヴァルダーニが摂政に就きましたが、実権はその夫ラクリヤーン・ピカタンに移りました。ところが彼は、例のサンジャヤ王家出身だったのです(4)。こうして中部ジャワの覇権は次第にサンジャヤ朝の手に戻されてゆきます。
そして、832年以降、シャイレーンドラ朝は碑文からも中国史料からもすっかり姿を消してしまいます。これに呼応するように、833年を最後にボロブドゥールの改修工事も最終的にストップするのです。
その後のシャイレーンドラ王家の消息を伝える碑文が一つだけ残されています。それによると、後継者争いに破れたシャイレーンドラ家の最後の王子バーラプトラは、856年、スマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国へ逃れてその王女と結婚し、シュリーヴィジャヤ王となりました。
こうしてジャワのシャイレーンドラ朝は、スマトラのシュリーヴィジャヤ王国と一つに合体した----と考える学者も多いのですが、実際にはシャイレーンドラ朝がシュリーヴィジャヤ王国に影響を与えることはほとんどなく、やがて歴史の忘却の彼方に消え去ってゆきました。
最盛期は70年も続かなかったのではないでしょうか。一陣の突風のように現れては去って行ったシャイレーンドラ朝……
その後には、中部ジャワにはサンジャヤ朝が復興し、ボロブドゥールに負けない石造大寺院群プランバナンを建設します(但しこれはヒンドゥー教シヴァ信仰のチャンディ(寺院))。
そして、スマトラ方面でもシュリーヴィジャヤ王国が復活、以前にも増す繁栄を取り戻すのです。
インドネシア歴史探訪のご紹介
いざジャカルタに行くという時に、インドネシアに関する知識が無かったという早崎さん。調べようとしても、インドネシア史の基本的な流れが書かれている情報源がなかったという。今までになかったインドネシア史に関する情報を集めたサイトを自ら作ろうと考え、少ない情報をかき集めて現在のサイト作りに精を出されたそうです。
「インドネシア史の基本的な骨組みを示す」を目標に作った現在のサイトでは、ボロブドゥールなどの観光地はもちろんのこと、インドネシア共和国の成立や宗教、日本との関わりなど、歴史という観点を含んだとても深い情報サイトとなっています。
観光雑誌だけでは知りえないインドネシアについて多く記載されていますので、ぜひ一度ご覧下さい。
協力:インドネシア歴史探訪