
パッラヴァ朝のマーマッラ王とその後継者は、かつてマーマッラプラムとよばれたベンガル湾に臨む港町マハーバリプラムの海辺と岩山に数多くの寺院や彫刻を残した。花崗岩の岩山を掘削した石窟寺院に始まり、牧歌的な岩壁彫刻や石彫寺院、そして切石を積んで建立した最初期の石造寺院等々インドの中世建築揺籃の地のひとつとしてきわめて貴重な文化史跡である。とりわけ「5つのラタ」とよばれる 19世紀に発掘された特異な一連の石彫寺院は、その壁面のレリーフ彫刻とあいまって建築形式の多様性が注目に値する。

パンチャパーンダパ・マンダパ窟、7世紀
Facade of Pancha Pandava Mandapa, 7th century
7世紀にさかのぼる昔日、今は小さな村にすぎないマハーバリプラムも、当時はコロマンデル海岸で最も重要な海港都市であった。 そこでは日暮れになっても、石工たちのふるう金槌や鑿(のみ)の音がたえず響きわたっていた。彼らは海岸から 400メートルほどのところに横たわる細長い岩山で、何十年にもわたって岩を彫りつづけていたのである。硬い花崗岩の岩山の表面には古い説話を描く巨大な岩壁彫刻がつくられ、岩山の周囲には10を超える石窟寺院が掘削された。石窟寺院にはライオン柱が立ち、内部にはガルバグリハ(聖室)が掘られ、その手前のマンダパ(拝堂)の壁には、パッラヴァ朝美術を代表する数々の壁面彫刻が制作された。
これらの石窟寺院と前後して、大きな露出した岩塊を丸ごと彫刻して一個の建物とする「石彫寺院」も、ここかしこでつくられた。それらはいずれも規模は小さいながら、南国的なおおらかな造形でインドの中世建築の原初の形を見せてくれる。しかし、石窟寺院にも石彫寺院にも、未完成のままに終わったものが見受けられる。粗削りのままで放棄された石窟や彫刻を見ると、かえって往時の石工や彫刻家たちの生の声が伝わってくるようでもある。
それらを未完にした理由ははっきりしないが、ひとつの原因は建設技法の進展であったのかもしれない。8世紀になると現地の岩を彫刻するのでなく、遠くから石材を運んできて、厳密な設計に基づいて加工した切石を組み上げるという、「石造寺院」の建設が始まったからである。
南インドにおけるその最初の実現が、このマハーバリプラムの海辺に建つ 「海岸寺院」 であった。その後、パッラヴァ朝 (300頃~910頃 )における建設活動の中心は首都のカーンチープラムへと移り、いくつもの石造寺院が建設されるのである。マハーバリプラムのすばらしさは、石窟寺院から石彫寺院へ、そして石造寺院へという発展過程を、風光明媚な海岸の村で連続的に見せてくれることにある。

マヒシャマルディニー・マンダパ窟、7世紀
Interior of Mahishamardini Cave, 7th century
このマハーバリプラムをはじめ、インド南東部一帯に 60もの石の寺院を残したパッラヴァ朝は、起源は不明であるが北方からきて、はや 4世紀には確立していたらしい。6世紀後半から 7世紀にかけてインド半島南東部、現在のタミル地方に勢力を広げ、バーダーミのチャルキヤ朝やインド南端のパーンディヤ朝と覇権を争った。
その首都はマハーバリプラムの西方65キロメートルのカーンチープラムにあったが、海洋貿易の基地として、このマハーバリプラムの港町が 6世紀頃に開かれた。最も栄えたのはナラシンハヴァルマン1世(在位 630~668頃) の時代で、王には「偉大なる戦士」という意味でマーマッラ(マハーマッラ)の尊称が与えられていたため、この町はマーマッラプラムと名づけられた。
タミル商人はここから、スリランカや東南アジアにまで進出していったのである。
パッラヴァ朝はヒンドゥ王朝であったので、マハーバリプラムの遺構はすべてヒンドゥ教寺院とヒンドゥ彫刻である。この町の裏側にそびえる岩山に石窟寺院を造営したのは、おもにナラシンハヴァルマン 1世の時代であった。柱は当初太い四角柱であったが、しだいに細身となって、柱脚にはパッラヴァ朝の象徴でもあるライオンが彫刻されるようになる。のちの時代には立ち上がるライオン柱となるのだが、ここではまだライオンはしゃがんでいる。
もっとも規模の大きいのはパンチャパーンダヴァ・マンダパ窟で、両端の付け柱を除いて6本の柱が 2列彫り出されている。その奥は左右がもっと深く彫り進められているが、中央祠堂は未完成のままで、拝堂の壁面にも彫刻がほどこされていない。
4本の繊細なライオン柱を正面に配したヴァラーハ・マンダパ窟は、小窟ながら拝堂の壁全面に彫刻がほどこされた、密度の高い石窟である。ヴィシュヌ神に献じられていて、左側の壁にはヴァラーハ(野猪)に化身して海の深淵から大地を支えているヴィシュヌ神が描かれ、後ろ側の壁にはヴィシュヌの神妃で幸運の女神ラクシュミーに象が潅水(かんすい)するレリーフ彫刻がある。
またマヒシャマルディニー・マンダパ窟では、シヴァの神妃で8本の腕をもつ女神ドゥルガーがライオンの背に乗り、水牛の姿の悪魔マヒシャを退治する場面が浮き彫りで描かれている。

岩壁彫刻 「アルジュナの苦行」、マハーバリプラム、7世紀
Relief carving on a rock, "Arjuna's Penance", 7th century
マハーバリプラムのレリーフ彫刻でとりわけ有名なのは、中央に細長い亀裂のある、長さ32メートルに高さが10メートルを超える、巨大な岩壁彫刻である。7世紀以来雨風にさらされてきた群像彫刻は、いつしかそこに描かれている主題が忘れ去られ、今ではふたつの解釈がなされている。ひとつは『マハーバーラタ』のなかの逸話「アルジュナの苦行」である。クル族の王子アルジュナはシヴァ神の加護を得るべく、構図の中央で神話上の神々や動物たちに取り巻かれながら、一本足で立ちつづける苦行をしている。
もうひとつの解釈は、ヒンドゥ神話の「ガンガーの降下」である。岩の中央の亀裂が天界から地上に落下するガンガー(ガンジス河)に見立てられ、シヴァ神の心を動かして河水を落下させた苦行者バギーラタを描いているというものである。流れ落ちる河水の中に立ち上がるのは龍神ナーガとナーギーで、その左には南方型の寺院建築が彫刻されている。右側の象の一家はきわめて写実的で、パッラヴァ彫刻の傑作といえよう。
彫刻家たちは赤みを帯びた花崗岩に、神々と人間の交錯する幻想世界を活写している。人体の表現は華奢(きゃしゃ)で肉づけも薄く、北インドのふくよかな人体表現と比べてやや硬い感じもするが、全体の躍動的な構図や描写は、生命感にあふれている。この物語彫刻は海を伝って、遠く離れたインドネシアのジャワ島やカンボジアのヒンドゥ教美術にも大きな影響を与えた。
ここから少し離れた、しかし同じ岩山の一角にもうひとつの岩壁彫刻があり、それもまた同じ主題を描いている。これは未完に終わったが、あるいは同じ彫刻家による、本番前の習作であったのかもしれない。

海岸に建つ初期の石造寺院 「海岸寺院」、8世紀
Early stone temple so called "Shore Temple", 8th century
マハーバリプラムで、海辺に切石を積み上げることによって石造寺院が建立されたのは、ラージャシンハ王ともいわれたナラシンハヴァルマン2世(在位 700年~728年頃)の治世である。これは南インドで最初の石造寺院と考えられ、建築的には石窟的古代から石造の中世への転換期であった。その「海岸寺院」は大小ふたつの南方型のヴィマーナが寄り添って建ち、いずれも頂部には半球状の冠石をいただいている。塔は水平層を積み重ねた南方型であるが、そのシルエットはまるで北方型のように垂直性が強い。1,000年以上にわたって波風に洗われてきたので、砂岩のあらゆる細部は風化して角が丸くなっている。
これはシヴァ神に献じられた寺院であるが、大小の堂のあいだに、塔こそないものの、もうひとつの祠堂があって、その床には「横たわるヴィシュヌ神」が彫刻されている。おそれく7世紀にここの岩面に彫刻されたもので、その上に8世紀のシヴァ寺院が建設されたのである。世界の守護神であるヴィシュヌ神は陸側に面し、一方破壊を司(つかさど)るシヴァ神は東側に置かれて嵐の海を見つめていた。
初期の石造ヒンドゥ教寺院を発展させたパッラヴァ朝も、10世紀初めにあえなく滅んだ。海港都市マハーバリプラムは急速に衰え、南インドの寺院建築に多大な影響をおよぼした寺院群も崩壊を免れなかった。寺院のいくつかは、打ち寄せるベンガル湾の波に洗われ、海岸線の後退とともに姿を消していったという。
19世紀末にイギリス人の考古学者たちがマハーバリプラムを発掘したとき、まず掘り出したのが、平穏な牡牛像に境内を取り巻かれた「海岸寺院」であった。当時「5つのラタ」は、砂のあいだから屋根の先端が覗いているにすぎなかった。その後、自然の脅威からこれらの寺院を守るために、管理者は海側に大きな石積みの防波堤を築き、周辺一帯に侵入者よけの有刺鉄線を張りめぐらした。それらは遺跡を守るのに格別有効というわけでもなく、何より海岸と寺院群とが一体となっていた景観を損ねてしまっている。
週末や休暇のシーズンには、マハーバリプラムには国内ばかりか外国からの観光客も数多く押し寄せる。マハーバリプラムは、いまやインドでも有数の歴史的名所となり、村全体が観光で生計を立てるようになった。ここを訪れる人々は村のあちこちにある彫刻工房で遺跡にちなむ工芸品を手にすることができる。 それらの彫刻工房から聞こえてくる槌音は、かつてここで石工たちが岩山を彫っていた頃のことを髣髴させる。日暮れになっても途絶えることのない槌音は、マハーバリプラムの仕事のリズムが昔から大して変化していないということを教えてくれるのである。

神谷武夫 著・写真, 2007年, 彰国社
今回マーマッラプラムをインドの建築からご紹介するにあたり、建築家 神谷武夫 さんに
ご協力頂きました。建築家として設計のかたわら、インドの建築文化、イスラムの建築文化、ロマネスクの修道院 の研究をされています。神谷さんの著書、翻訳などの執筆活動から、私たちは文化を通じたイスラーム理解に一歩近づくことができるでしょう。このページでご紹介した写真は神谷さんが撮影されたものです。著書でも記述に写真がたくさん添えられた、一般読者でも分かりやすく又目でも楽しみながら理解に近づく事ができるはずです。
最新の著書の「イスラーム建築」(彰国社) の出版が待たれています。
以下「神谷武夫とインドの建築」HP お知らせより。
イスラーム報道は 毎日のように新聞やTVでなされていますが、その大部分はテロ関連のものであり、出版も 宗教や経済、政治分析に偏っており、文化の紹介が きわめて限られています。 そのために 日本人のイスラーム認識は、テロを行い、大仏を破壊し、女性を抑圧する、野蛮な宗教とその人々、とでもいった 偏見に満ちたものとなっています。 しかしイランやトルコ、エジプトなど 中東を旅してみればわかるように、イスラーム諸国の人々の生活は 何ら暴力的なものではなく、我々のものと同じように 平和で文化的なものです。 それだからこそ、彼らは 誰もが日本を好きだと言います。 我々のイスラーム理解も、文化を通じてなされねばなりません。 イスラームでは偶像崇拝が厳しく禁じられてきたがために、絵画や演劇や音楽は十分な発達を遂げたとは言えませんので、イスラーム文化を代表するものは 建築と庭園と書道になります。 『イスラーム建築』 は、日本人のイスラーム理解のために、ぜひとも出版されなければ ならないのです。
右にHPへのリンクを張っています。マーマッラプラムの他、様々なインドの建築が紹介されています。是非観てみてください。